報道ステーション「原発 私はこう思う」 堺屋太一 メモ
7月4日、「報道ステーション」で放送された「原発 私はこう思う」をメモしました。
今回は元通産省の官僚で作家の堺屋太一氏です。
(以下、メモ)
作家 堺屋太一(75歳)
「原子力発電は少なくとも数十年必要だと思います。そのために、もっと完全に安全にしなくてはいけない。現在の日本の原子力発電の最大の欠点は“基準主義”なんです。官僚が定めた基準に合格すれば、絶対に事故が起こらない、官僚は絶対に間違えない(としている)。従って、事故対策のダメージコントロール(=被害を最小限に抑える事後の措置)がまったく考えられていないんです。だからまず、原子力を再開するにあたっては、ダメージコントロールの仕方、訓練、機具、方法を明確に示して、さらに3ケタくらい安全性を高めてほしいですね」
「私は通産省のサンシャイン計画で、風力、太陽光、地熱を3年半担当する研究官でした。それで、よく分かるんですけども、自然エネルギーで相当の(エネルギー)比率、例えば20%を賄うことはきわめて困難。時間もかかるし、電力料金も上がるし、不便も付きまといます。そういう意味で言いますと、天然ガスと原子力のある程度の利用は避けられないのではないかと思いますね」
堺屋氏は一方で、エネルギー消費を抑える社会に向かうべきだと主張する。
「戦後、石油文明の時代は、エネルギー多消費型の生活態度、社会構成がいいことになっていた。住宅地から工場街やオフィス街や商店街に、長い距離を電車や高速道路で結ぶんだという計画を立てた。これは明らかにエネルギー多消費型なんですね。ここは住宅専用地、工業専用地と分けて行政するのがやりやすいという官僚的発想なんですよ。省エネルギー型の生活、美意識に変えなければならない。例えば、歩いて暮らせる街づくり。だいたい1キロ半径の中にすべてのものがあると。住宅もあれば商店街もあればオフィスもあれば、遊興施設もあれば病院も学校もあると。そうすると、少なくとも10年間に25%ぐらいのエネルギーを減らせます。そうすると、今の原子力発電も順次やめていくことも不可能ではない。この東日本大震災を機会に、官僚主導の文明から自由選択の文明に変える、これが1番大事なポイントですね」
(以上)
「歩いて暮らせる街づくり」、つまり「コンパクトシティ」の推進は、いいこと言ってるなと思いますが、「原子力発電は少なくとも数十年必要だと思います」と言っている時点で終わっています。今年の夏でさえ何とかなりそうなのに、10年間に25%ぐらいのエネルギーを減らせるのに、原発を動かす理由はありません。何をどう考えると「数十年必要」という結論になるのでしょうか。原発を止めて電力が不足するというなら、当面はLNGのガスコンバインドサイクルで賄えば解決です。その間に自然エネルギーを推進すればいいことです。今の利権構造を温存したままの電力会社や保安院に「ダメージコントロール」なんかできるわけがないですし、安全性をゼロから3ケタ積み上げたところで完全な安全などあり得ません。経済産業省の官僚みたいな発言をしながら「官僚主導の文明から自由選択の文明に変える」とは滑稽です。
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「原子力発電は少なくとも数十年必要だと思います。そのために、もっと完全に安全にしなくてはいけない。現在の日本の原子力発電の最大の欠点は“基準主義”なんです。官僚が定めた基準に合格すれば、絶対に事故が起こらない、官僚は絶対に間違えない(としている)。従って、事故対策のダメージコントロール(=被害を最小限に抑える事後の措置)がまったく考えられていないんです。だからまず、原子力を再開するにあたっては、ダメージコントロールの仕方、訓練、機具、方法を明確に示して、さらに3ケタくらい安全性を高めてほしいですね」
「私は通産省のサンシャイン計画で、風力、太陽光、地熱を3年半担当する研究官でした。それで、よく分かるんですけども、自然エネルギーで相当の(エネルギー)比率、例えば20%を賄うことはきわめて困難。時間もかかるし、電力料金も上がるし、不便も付きまといます。そういう意味で言いますと、天然ガスと原子力のある程度の利用は避けられないのではないかと思いますね」
堺屋氏は一方で、エネルギー消費を抑える社会に向かうべきだと主張する。
「戦後、石油文明の時代は、エネルギー多消費型の生活態度、社会構成がいいことになっていた。住宅地から工場街やオフィス街や商店街に、長い距離を電車や高速道路で結ぶんだという計画を立てた。これは明らかにエネルギー多消費型なんですね。ここは住宅専用地、工業専用地と分けて行政するのがやりやすいという官僚的発想なんですよ。省エネルギー型の生活、美意識に変えなければならない。例えば、歩いて暮らせる街づくり。だいたい1キロ半径の中にすべてのものがあると。住宅もあれば商店街もあればオフィスもあれば、遊興施設もあれば病院も学校もあると。そうすると、少なくとも10年間に25%ぐらいのエネルギーを減らせます。そうすると、今の原子力発電も順次やめていくことも不可能ではない。この東日本大震災を機会に、官僚主導の文明から自由選択の文明に変える、これが1番大事なポイントですね」
(以上)
「歩いて暮らせる街づくり」、つまり「コンパクトシティ」の推進は、いいこと言ってるなと思いますが、「原子力発電は少なくとも数十年必要だと思います」と言っている時点で終わっています。今年の夏でさえ何とかなりそうなのに、10年間に25%ぐらいのエネルギーを減らせるのに、原発を動かす理由はありません。何をどう考えると「数十年必要」という結論になるのでしょうか。原発を止めて電力が不足するというなら、当面はLNGのガスコンバインドサイクルで賄えば解決です。その間に自然エネルギーを推進すればいいことです。今の利権構造を温存したままの電力会社や保安院に「ダメージコントロール」なんかできるわけがないですし、安全性をゼロから3ケタ積み上げたところで完全な安全などあり得ません。経済産業省の官僚みたいな発言をしながら「官僚主導の文明から自由選択の文明に変える」とは滑稽です。
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テーマ : 「原発」は本当に必要なのか - ジャンル : 政治・経済
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「橋下徹=脱原発」にあらず
この間の日曜日の福島県議選は岩手・宮城に続いて共産党が議席を伸ばすという喜ばしい結果に終わりましたが、来る大阪ダブル選では、打って変わって陰鬱な結果に終わりそうな雲行きであります。 さて、今日の『kojitakenの日記』様*1にて、「小沢信者にして橋下信者にして河




昨今の福島第一原発の騒動と議論のやり取りを見ながらこんなことを思った。『同じような議論は百数十万年前にもきっとあった・・・』と。それは人類の祖先が初めて火を使ったときの議論もこれに似ていたであろうと想像したからである。
消す術を知らなかった頃、火は危険で怖いものと受け止められた。それは獣や動物たちが火に対して感じる恐怖感に似ている。しかし、火の便利さは調理や夜間の獣除け、暖房・明かり・土器作りなどに発揮された。
たびたび、突風が吹き集落は焼かれ仲間はけがをするなど大惨事を引き起こした。このようなときは村の長老や識者が、火は危険だ、使うべきでないと言いだしたと想像出来る。しかし、多くの犠牲を払い非難を浴びながらも、人類の祖先は危険であるが役に立つ火を使うことをあきらめなかった。原子炉は冷却で安全になるように、火は水を掛ければ消えることを知っていた賢い猿人は、ある時水を入れる壺を作り火のそばに置くことを思いついた。各地の古墳から発見される壺の中には消火用に使われた壺もあったと思うし、またそのことで火は更に安全なものとなった。このように火を安全に使う術を身に付けるだけでも、何万年もかかったことでしょう。
原子力は火と違って規模も与える影響も比較にならないほど大きい。今の事態や議論を当時の失敗や犠牲を例にするには無理があるかもしれない。しかし未知の知識や技術を人類が手に入れようとするときのステップとしては共通のものがあると思う。
この危険な火を使う術を身に付けた猿人は後に人類となったが、拒否した猿人がその後どうなったか私は知らない。